「バルトの声を聞く」
ロラン・バルト著作集10『新たな生のほうへ 1978-1980』を読んで

テオロスフォーラム 松原道剛



ISBN4-622-08120-2
C1310 ¥4200
 昨年12月に配本がはじまった『ロラン・バルト著作集』(みすず書房、石川美子監修)は、3冊の主要な既訳(それぞれ既訳のタイトルは『神話作用』『エッセ・クリティック』『表象の帝国』)のほかは、2002年に改定されたばかりの、バルトのすべてを網羅したとされる5分冊の新しいフランス語版全集を底本とし、フランスでも単行本としてまとめられていなかったものまでも収録されており、そこには、新聞や雑誌に発表されたエッセや展覧会のカタログ、書籍のはしがき、講義録をまとめたものから、インタヴューや対談を収録したもの、テレビ・ラジオで放送されたものまでが含まれる。それらが、どこまでバルトの「著作」であるのかは論議が分かれるところだろうが、一部をのぞいてはじめての日本語訳として、全10冊がそれぞれ「書かれたもの」と「話されたもの」に分けられ、年代順に編集されている。この著作集によって、わたしたちはこれまで28冊の単行本という成果としてもたらされてきた、さまざまな対象に遷っていったバルトの仕事の変化の道程の合間を詳しくたどることができる。
 これらのテクストはおおよそには短い。しかし、それゆえにさり気なく、磨ぎすまされ、緊張感に満ちている。推敲がかさねられ、削りこまれた結晶として、これらはわたしたちの現前にあるのだろうか。あるいは若い頃から執筆のための膨大なカードを残しながら形づくられていった、たぐいまれなバルトの文体そのものがもつ特異性なのだろうか。いずれにせよ、ここには、監修者が述べているように、何よりも「バルトのかざりけのない声を聞くような」よろこびに溢れているのである。
 その一方で、この著作集は、さまざまな対象にテクストを残したバルトの小品ばかりを集めた「落ち穂拾い」にとどまるものではけっしてない。出版の事情などでこれまで単行本におさめられなかった重要なテクストも少なくない。たとえば演劇論は、早い時期からバルト自身も単行本にまとめようとしていた。1950年代、当時の東ドイツからパリの世界演劇祭に来演したベルトルト・ブレヒトのベルリナー・アンサンブルに惹き付けられたバルトが、ベルナール・ドルトのすすめによって、演出家ジャン・ヴィラールの「演劇をあらゆる階層の民衆にまで届けようとする民衆演劇」の理論的うしろ楯であった、『テアトル・ポピュレール』誌の編集にかかわるようになったことはよく知られている。そこを中心として執筆された、当時ブレヒチアンとまでいわれたバルトの膨大な演劇論は、これまで、ごくわずかな文章が『エッセ・クリティック』などいくつかの論文集に収録されているにすぎず、残りは日本語に訳されることもなかった。
 そして最初に刊行された『新たな生のほうへ』(石川美子訳)と題されたこの最終巻は、バルトにとってはからずも晩年といわれるようになる、78年から不慮の交通事故に遭って64歳で亡くなる80年3月までの最後の年月に書かれたテクストを集めている。バルトが生涯をともに暮らしていた母親の死後(77年10月)、プルーストの『失われた時を求めて』へのあからさまな傾斜を吐露しながら、批評活動をはなれて小説の準備をはじめようとしていた時期にあたる。プルーストの小説技法についてのエッセや、『小説の準備』と題されたコレージ ュ・ド・フランスでの講義概要がその証しであろう。そしてすでに『新たな生』と題されていた小説は、紙挟みに収められただけの8枚のA4用紙に書かれた構想が、フランス語版全集と同様バルトの手書きの原稿によって訳文とともに掲載されている。
 このバルト自身が「新たな生」と名付けていた時期には、また、さまざまなジャンルにわたる芸術論が展開されている。写真や映画についての文章とともに、絵画や音楽についてのエッセも見事にそれらの本質を穿っていて、たいへん興味深い。この時期のバルトは文章を書くのみならず、その合間にみずからピアノを弾き、水彩画を残し(それが今回の『著作集』の美しいカヴァーになっている)、映画にも出演した。そしてバルトが、それまで通りぬけてきた理論や対象が、いくつかのテクストとして、ふたたびこの時期に再現されている。
 ますます豊穣さを増しながら、さまざまなジャンルにわたる対象への、「言語の経済性」にのっとったバルトのテクストが、それぞれに添えられた必要最小限の訳注とともに、平易で丁寧で淡々としていて、そして簡潔な日本語に置き換えられている。まさにバルトのテクストそのものが日本語になっているのである。そこから、わたしたちはバルトが好んだというシューベルトのピアノトリオのアンダンテを聴き取ることもできるように思われる。中庸の、わたしたちにとってもっともなじみの深いこのテンポを、バルトはこれらのテクストに指定したのではないのだろうか。
 バルトは同じ巻の『クロニック』のなかで、二度にわたりテンポについてふれ、「音楽においては、正しいテンポ(わたしの内面の欲求に一致する)は真実の歓喜を生みだす」と述べているし、また『テンポの問題』では、パスカルの「早く読み過ぎたり、遅く読み過ぎたりすると、何も理解できない」という文章を引用しながら読書のテンポについて考察している。楽譜に速度記号がふされているように、テクストにも読書のための指定された速さが存在するのだろう。そのバルトが指定したであろうテンポが、日本語に置き換えられて、はじめてわたしたちにももたらされたということができる。そのことは、まさにバルトのいう「真実の歓喜」にほかならない。このような中性的ともいえるものに対するバルトの嗜好への厳格なアプローチが、これからの新たなバルト理解のために不可欠のものとなるであろう。

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