VUETHEOROS
テオロス連続セミナーレポート
『ベケットの戯曲を翻訳する』(講師長島確)
西田信子


 

テオロスフォーラム2003年春期シリーズでは、昨年に続いてサミュエル・ベケットを取り上げた。『ゴドー』のテクストの解体を試みた演出家岡本章(錬肉工房)、ベケット・ライブと銘打って後期作品の上演に取り組む女優鈴木理江子、そして鈴木の上演に際して新訳を手掛ける長島確の3人を講師に迎え、現代における上演と翻訳の問題に焦点を当てている。その中から、ベケットによって「書かれたもの」に翻訳家として向き合う、長島確の話を紹介する。
◆ベケットが訳すベケット
 ベケット作品は、書かれた世界のみならず、その存在自体が風変わりな問題を孕んでいる。まず、正確な作品数を数えられない点を、講師は指摘する。ベケットは最初仏語で書いたものを自ら英語に翻訳し、また英語で書いたものを仏語に翻訳した。それら二つの版には、著書自身による訳でありながら、細かい違いが見られる。最初の版と一種の改訂版である翻訳版は、同じ作品なのか、別の作品なのか。著書自身によって、原典の正当性がはぐらかされているのである。
 その問題は他言語への翻訳にも影を落とす。研究者も翻訳者も英文系と仏文系に分かれ、各作品は最初に書かれた版を底本として、もう一方を参照しながら翻訳され、結果として膨大な細かい注釈がつけられる。翻訳者の解釈や判断が入り込むのは翻訳の宿命とはいえ、ベケットの場合、とりわけその問題は大きい。
 新たな訳に取り組む講師にとっても、原典をどちらにするかは、非常に深刻な問題だという。一方を取るなら、もう一方はどうするのか。等価なものとして捉えると、異なる部分の事情が見える場合もあるが、書くという行為が著書の生きた時間の流れであるなら、書かれた順序は揺るがせにできない。二つの版で印象が異なる作品も多く、それは異なる言語の響きの違いもあるにせよ、同じひとつの作品なのかという問いにつきあたる。作品中の引用も、それぞれの文化・歴史に呼応して、英語と仏語で出典が異なる場合があり、ベケットは翻訳によって何を移し換えているのか、と問わずにいられない。さらに他言語への翻訳時には、その引用の豊かさをどう考えるかという問題に直面する。
 ベケット自身による仏版/英版は、一つの作品の二つのバージョンなのか、二つの異なる作品なのか。そもそも、同じひとつの作品とは何か。そういった、他の作家では考えられない不思議な分裂・並行を、ベケット作品は内包しており、ベケットの最も奇妙な点はおそらくそこにあるといえる。それを日本語に訳す場合、定めがたさが増す一方、さまざまな可能性を見いだすこともできる。
◆ベケットを日本語に訳す
 1999年より講師は、『わたしじゃない』などいくつかの作品を、上演台本として翻訳してきた。既訳版の日本語の古さから離れ、役者の身体と声にのせられる新しい台本をつくる試みとして、それは始まった。戯曲の翻訳は、演出の領域に踏み込まざるを得ない面があり、よい意味での不安定な立場に立つことになると講師はいう。日本では上演機会の少ない抽象度の高い後期作品も、上演台本として読むと、実に身体性を備えていることがわかり、ベケットの仕掛け・台詞と身体との関係性を考えなければ、翻訳は立ち行かないという。
 『わたしじゃない』は、暗闇にぽっかり浮かんだ口=私が喋り続ける、視覚的インパクトの強い作品である。観客も役者も集中を要求されるこの芝居の短さは計算され尽くされたものと講師は考え、ベケットお気に入りのホワイトロウが演じた11分余りを目安に、日本語版に取り組んだ。底本は、言葉の反復や<・・・>による区切りがより整理された仏語版=翻訳版を選んでいる。長さを指標とする翻訳作業は、母音や子音・音節数なども考慮しながら一語一語を調整し、俳優が声にのせる時のさまざまな可能性に配慮しつつ、発声に要する息の長さを目安に推敲が重ねられた。区切られたフレーズは、単独でもつなげても成り立つ言葉を選び、原語の音の反復も重視して、日本語に置き換えていったという。
 『ロッカバイ』は、舞台上の揺り椅子に老女が座り、そこに録音された声が聞こえてくる芝居である。この翻訳の際には、テクストを区切る改行と、揺り椅子のリズムの関係に着目して、短い日本語に置き換えたという。
 講師は、『わたしじゃない』は声に出し息継ぎをしながら、『ロッカバイ』は体を揺らしながら、翻訳と推敲を進めたそうだ。特に後期作品は、意味以上に身体・物・声との関わりが考え抜かれ、翻訳時にも自分の身体を通さざるを得ないのだという。
◆ベケットと翻案
 小説、戯曲、映画、テレビ、ラジオなど、多様なジャンルの作品を書いたベケットは、翻案を好まなかったことでも知られる。演劇なら演劇が、演劇として成立するとはどういうことかという真摯な問いが、ベケットにはあったと講師は語る。『ゴドー…』の二人はひたすら時間をつぶし、『幸せな日々』のウィニーは土に埋まって喋り続ける、それは、幕が開いたら舞台上で終わりを待って過ごすしかない俳優の身の処し方に他ならず、生身の俳優が舞台にいることの意味が問い直される。同様にテレビやラジオのための作品でも、ジャンルの特性を巧みに利用しながら、ジャンルが成立する根幹を問い糾し続けたといえる。それゆえ、ジャンルを超えた翻案の試みに、成功といえるものは少ない。
 では、翻案は不可能なのか。それは講師の目下の関心事であり、晩年の散文作品の翻案を企てているという。2003年のベケット・ライブでは、『ある夕方』がリーディング形式で上演された。ある女が誰かの書いたものを読んでいるが、書かれているのは彼女自身のことではないかと思わせる入れ子構造となっていて、誰が何について語っているのか明確でなく、言葉のつながりに落差のある作品である。単なる朗読でも単なる劇中人物でもその落差は出ず、重要なのは「それが書かれたものであることを捨てないこと」ではないかという。
 ジャンルと強く結びついたベケット作品を翻案するには、移し替えるジャンルの基盤を考えることがまず重要だろう。翻案は作者に対するある種の越権行為であるともいえる。が、後期散文三部作のような、具体的な身体が曖昧で、今まさに書きつつあるということについて書かれたものを、演劇として上演するなら、今まさに読み進めるということを舞台上にのせる、というような形で、可能性はあると講師は考えているという。

(2003年6月〜11月)

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