フラヌリー2
佐藤康 ドラマトゥルグ


      人生の3つのヴァージョン、あるいは犀になる人生

 この5月から8月にかけてはフランス作品がけっこうな本数、東京で上演されます。こんなに多いとフラヌリーどころではなく、駆け回らないといけません。さまざま上演されるなかで、今までとちょっと毛色がちがうのは、ヤスミナ・レザとエリック=エマニュエル・シュミットの作品が2本ずつ取り上げられることでしょう。レザは演劇集団円が『人生の3つのヴァージョン』という作品を『LIFE×3』という題名で(これはロンドン上演でつけられた題名だったでしょうか。)上演しました。7月には長塚京三さん(フランス留学経験のある俳優さんですから、やっぱりフランス演劇に目が利くんでしょうか)が中心になって『偶然の男』という作品を上演します。シュミットは沢田研二さんが出演するので話題でしたが、『謎の変奏曲』が上演されました。7月には代表作のひとつ『ヴァローニュの夜』が鵜山仁さんの演出で上演されます。
 レザとシュミットには共通点がいくつかあります。まず、この二人の劇作家はもちろんフランスの劇作家なのですが、ロンドンやニューヨークで作品が喝采を浴びて商業的にも成功を収めた作家です。知名度の低いフランスの前衛作家よりは、やはりこういう作家のほうが日本で上演しやすいでしょう。ですからレザやシュミットはたしかにフランスの劇作家ですが、この意味ではフランスの演劇そのものとして受け入れられているとは言えない要素があります。その問題については愚痴を言ってもしょうがありません。そして、この二人は非常に完成された文体で作品を書く点でも共通しています。レザは処女作の『埋葬の後の会話』や『冬を越えて』以来、かなりステータスの高いブールヴァール系の劇場で、錚々たる舞台俳優の芸に支えられながら活動をしています。この二作品はいずれも人生の問題、過去への郷愁や悔恨、という、なかなか渋い人間と歴史の内面性にせまる作品です。劇場に上質の文学を求めにくる層の評価を得てきました。後にレザは小説家としても成功を収めます。ところがその段階ではレザは国際プロモーションに進出できませんでした。レザが飛躍するのは『アート』と『人生の3つのヴァージョン』によってです。真っ白なカンヴァスを現代美術作品として購入した男の交友関係を描いたのが『アート』です。レザはコメディーを書いたことで国際的な地位を得たのです。(『偶然の男』についてはいずれ書きます。)そして『人生の3つのヴァージョン』もこれに劣らぬ大成功を収めました。
 シュミットは劇作家であると同時に、18世紀哲学の研究者として活躍しています。レザ同様、しっかりした文体の作家ですが、レザが会話の余白に主題を託すタイプだとすれば、シュミットはとにかく理詰めです。それだけにどういう舞台を作ったらいいのか、難しいと言えましょう。残念ながら『謎の変奏曲』を見逃してしまいましたので、今回はレザの『LIFE×3』のことを取り上げます。

◇ヤスミナ・レザ『LIFE×3』演劇集団円 大間知靖子訳・演出(ステージ円 5・19〜30)
 よくテレビのコントなどで、同じシチュエーションで起こる出来事を、別様に場面を展開させて次々と見せるものがありますね。レザのこの作品は、それをもっと大規模にして一篇のコメディーに仕上げたものです。したがって手法そのものは新しくないのですが、本格的な芝居にその手法を応用した点が巧みです。
宇宙物理学者と、弁護士の資格を持つキャリア・ウーマンの夫婦がいます。この夫婦にはまだ小さい子供もいます。夫はここ何年か研究が停滞しているのですが、今、自分の研究者生命をかけた論文を発表しようとしています。今後の人事のこともあるのでしょう。夫妻は上司の物理学者を家に招待して接待しようとします。ところが招待された日をめぐって行き違いがあり、上司夫妻は予期せぬ客として門前に現れてしまいます。食事の支度を何もしていない夫婦。ストッキングが切れていることを気にしている上司の奥さん。
お菓子などをつまみながら、応接間で4人の話が展開します。
 第1話では、主人公の学者は上司から、同じ問題を扱った論文があると聞かされて挫折感を味わいます。自分を「負け犬」(原作の表現はmaudit)だと卑下して自暴自棄になります。子供はなかなか寝ないし、険悪な雰囲気に4人は包まれます。難解な宇宙物理学の話題と子供のしつけをめぐる話題が交錯する面白さが原作にはあります。
 第2話では、上司からその論文の話を聞かされた主人公はやや投げやりな態度はとりつつも、嫌なことを忘れてしまおうと酩酊していきます。
 第3話では、主人公は友人の助けもあって冷静にその論文と自分の研究との違いを理解し、幸福な気分になります。
 ささいな気の持ちようや偶然によって正反対の人生にたどり着いてしまう人生の綾が描きこまれている作品なのですが、円の舞台は翻訳も残念ながら不備が目立ちましたし、俳優も硬さがとれずに上滑りしているように感じられました。

 今月はもう1本、燐光群のアトリエの会がウージェーヌ・イヨネスコの『犀』を上演しました。

◇ウージェーヌ・イヨネスコ『犀』燐光群アトリエの会 加藤新吉・訳、坂手洋二・上演台本、大河内なおこ・演出(梅が丘BOX 5・10〜25)
50席ほどの小さな空間です。ただでさえ狭苦しいところですが、四方の壁に沿ってその内側にさらに壁を作り、いっそう窮屈にしています。つまり二重箱の状態です。ひな壇に組んだ客席を向かい合わせに設置して、中央に四畳半くらいのスペースを空けます。そこが一応、舞台です。しかし客席の通路や、内壁に開けられた窓のような開口部も頻繁に使われるので、この空間は舞台のなかに客席をこしらえたような按配になります。サラウンド効果をねらったわけです。これだけ至近距離から囲まれてしまうと、さすがに俳優の熱が伝わってきます。あまりに「生」っぽいのは嫌だと言う人もいるかもしれませんが、私は(狭いところ慣れしているせいか?)嫌いではありません。
それはともかく、『犀』について。イオネスコを筆頭に1950年代のアンチ・テアトルと呼ばれる劇作家たちは、作劇上リアリズムに依拠しなくても、もっと言えば、人間固有とされる理性論理を解体してしまっても演劇が成立することを発見しました。世界が論理や言語によって統合されないものであることを暴いたのです。イオネスコの場合、たとえば『禿の女歌手』では意味の解体と言語の増殖が、『椅子』では事物の増殖がテーマになっていますが、そこにはいずれも言語が理性の側にではなく、事物の側にあることが示されています。この作劇は世界中に強烈なインパクトを与え、「不条理演劇」という名の下に多くの追随者を生みました。
けれどもイオネスコの作品だからといってすべてがそういうわけではありません。中期から後期にかけてのイオネスコ作品のなかでも、この『犀』と『瀕死の王』はとくに不条理演劇の要素の薄い、スケールの大きな本格作として今日でもよく上演されています。『犀』はまさしく寓意劇と呼ぶのにふさわしい作品です。街中を突如として犀が駆け抜けていく第一幕にはじまり、人間たちが次々に犀に変身していく状況のなか、主人公だけが必死の抵抗を続けるという話です。犀は非人間的暴力、ファシズムの象徴であると解釈されています。アルベール・カミュの『ペスト』とも似たテーマですが、カミュが疫病のように人間をいやおうなく襲うものとして暴力を捉えたのに対し、イオネスコはむしろ、人間が自ら犀になりたいという欲望に屈していくプロセスを描いたと言えます。カミュが希求した愛やヒューマニズムをもイオネスコの『犀』は踏みにじっていきます。
ズルズルと挙国一致、大政翼賛会へとひきずられていった日本の過去。とりわけ「転向問題」。あるいは昨今、「勝ち組」「負け組」などという煽動にあおられてグローバリズムの尖兵となっていく企業人の寓意として読み解けば、これはなかなか今日的でもあるのです。つまり、なれるものなら犀になったほうが、人生楽。つまり私たちこそ「犀」なのです。
大河内演出はそれなりにさまざまな趣向を凝らしていて、その限りでは一定の評価を与えてもよいと思いますが、演出家というのは、作品の主題を正確に捉えることが何よりも大事な仕事です。趣向はその主題に奉仕する限りにおいて意味があるのです。もう少しシャープに作品の主題に切り込んでもらいたかったとも思います。いろいろと工夫をすればするほど、作品のテーマが拡散してしまう弱点があるのは否めません。
台本の作り方についても、加筆部分と旧訳との文体の落差がはげしく、「犀」に対して人間が、あたかもペストにかかるのが嫌だ、と喚くかのような主人公のパセティックな気持ちが前面に出過ぎてしまうところが、ややありました。が、ともかく、この狭い空間をうまく使った演出は刺激的でした。