演劇フラヌリー 第4回 

2人のヒーロー、ドン・ジュアンとエドモン・ダンテス


 記録的な猛暑となった日本の7月でした。昨年フランスを襲った酷暑(カニキュール)がいよいよ今年は日本を襲うか、と心配したのは私だけではないでしょう。インターネットでフランスのテレビ・ニュースを見ていると、あちらが比較的、冷夏なのに羨ましい気持ちになったものです。こう暑くては劇場に向かう足もついつい鈍りがちですが、なんとかがんばってフランス演劇は2本見てきました。汗をかきかき劇場にたどりつくと、今度は一転、場内の冷房が効いて身に応えるほど。どんなに暑いときでも、Tシャツだけでは劇場に行けません。みなさまも軽く羽織るものをお忘れなく。
 夏の盛りに芝居に行くのはたいへんですが、観客の私たちよりも、演じる役者のほうはもっとたいへんです。だいたい私の知る限り、上演作品を決定するプロデューサーや演出家が、上演作品と季節の関係を考えることは、まず皆無と言ってよく、考えてみればこれは残酷な話です。今回の1本目、エリック=エマニュエル・シュミット『ヴァローニュの夜』(シアター21、紀伊国屋サザンシアター)は、貴族社会を題材にした作品で、重厚な衣装を身に着ける芝居でしたから、とりわけペチコートのついた時代衣装を身に着けた女優さんたちはつらかったでしょう。お仕事とはいえご苦労様です。
 時代は18世紀、ノルマンディーの廃れた城に5人の女性が集められます。彼女たちをそこへ呼んだのは公爵夫人。この女性たちはいずれもドン・ジュアン(ドン・ファン)にかどわかされて捨てられた過去を持つ女性たちです。公爵夫人は張本人のドン・ジュアンをもここに呼び、彼の罪業の数々を断罪する裁判を開こうというのです。
 しかし公爵夫人はドン・ジュアンにひとつの提案を出します。彼が最後に誘惑した女性と生涯添い遂げるならば、今までの罪は不問に付してやろうというのです。天性の誘惑者にとって結婚は辛いはずです。承服しないだろうと思うと、ところが事態は思わぬ展開をします。ドン・ジュアンはあっさりとその条件をのんでしまって、結婚を約束するのです。なぜ、その女性を愛するのか? ドン・ジュアンは女性の兄を愛していた、と告白するのです。非常に大胆な、ドン・ジュアン=同性愛者、という解釈の作品です。シュミットの処女戯曲であり、パリのブールヴァール系の劇場でロング・ランとなったヒット作です。シュミットはその後『リベルタン(自由思想家)』、『訪問者』など多くの作品を書いては次々にヒットさせ、パリからロンドン、ニューヨークへと活動を広げる国際的な劇作家となりました。古典的な、破綻のない文体の作家ですが、劇作家であるとともに18世紀哲学の専門家でもあるために、意外と保守層のインテリ好みの知的な設定が受けているのではないでしょうか。演劇の演劇たる根幹に疑問を投げかけるタイプの作家ではありませんので、私自身はあまり高く評価していません。
 ところで、こういうドン・ジュアン解釈はどうでしょう? 磯村尚徳さんお得意のジョークに「いないもの」とでも題する次のようなものがあります。「いないもの、ドイツ人のコメディアン、フランス人のビジネスマン、・・・と続いて、日本人のプレイ・ボーイ」というのがオチの、国民性をあてこすったものです。私たちは、たしかに平安時代には光源氏を生んだ文化風土を持った国民かもしれませんが、どうもこの「ドン・ジュアン」という人物をひとつの典型とする誘惑の原理が、私たちにはピンとこないのです。
 ドン・ジュアンを支配している原理は、誘惑と逃走です。モリエールの古典劇やあるいはモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』でおなじみのように、ドン・ジュアンは女性に対する誘惑者であるとともに、石造の騎士に「誘われて」地獄に堕ちます。誘うだけでなく誘われる、というところがドン・ジュアンが、いわば誘惑に誘惑された人物であるあかしになります。この人物が哲学的なテーマを引き寄せるのはこんなところに理由があります。
 この末路はともかくとして、ドン・ジュアンが欲望の原理そのものの機械のように、運動に身をささげる存在であることも、彼が女性から逃げ続けてはまた別の女性を誘惑することを飽くことなく繰り返すことから分かります。モーツァルトのオペラの序曲をお聞きになったことがありますか? そこには主人公がこの往復運動を本質とする存在であることが、見事に音楽で表されています。そして、この運動が、ひょっとしたら「快楽」を追求することとは異なるものなのではないか、と多くの研究家は考え始めました。なるほど、自らの欲望の赴くがままに快楽をむさぼっているかのように見えるドン・ジュアンですが、過去に騙した女性から追われ続ける身の上であることを考えればその人生は、むしろ苦行のようなものに近いのです。精神の自由を求めるはずが、実際これほど不自由な生活をしている者もいないのであって、そこがシュミットの着眼点でもあります。
 シュミットという作家は、やっぱり大学の先生らしい、というか何と言うか、素晴らしい個人ホームページを持っていて、しかもそこに自作の解説を徹底的に書くという、珍しいタイプの作家です。彼の作品は、思想上のテーマを、演劇を通して立体化するという趣があります。そのなかでシュミットは「ドン・ジュアンは快楽を求めているのではなく、勝利を求めているのだ」と述べています。この「勝利」が何をめざしたものなのか、シュミットは説明してくれませんが、おそらくは神の倫理から切り離された人間理性の自律を歌い上げる18世紀の思想家とドン・ジュアンがそこに重ねあわされているのでしょう。
 ところで、そもそもこういうドン・ジュアンの思想が私たちにはどうにも分かりにくいような気がするのです。私たちの欲望は、大衆消費社会の仕掛けのなかでしか発動しないように統御されてしまっています。つまりドン・ジュアンがけっして大衆に埋没しない精神を持つことで、はじめて誘惑者として出発できるのに対して、私たちは誘惑者にすらなれない状況を生きているのです。フランスという国では、個人が誘惑者たりうる土壌があるのかもしれません。そういう状況のなかでないと、ドン・ジュアンをめぐる芝居は難しいように思うのです。
 しかも、この作品は、石造の騎士に断罪される、という「17・18世紀的解釈」を疑問に付し、それを転覆させることを目的に書かれました。ドン・ジュアンは潜在的な同性愛者であるがゆえに、求めるべくもないものを女性のなかに見出そうとしては、失意のうちに他の女性へと移っていく、という解釈です。これは精神分析学者も認める傾向なのだそうで、シュミットもそれを根拠にしています。したがってドン・ジュアンにおいては「愛」と「性」とは切り離されている、というのです。
 私にはこの解釈の当否を判断する資格がありませんが、しかしこういう観念の構図の上に成立した作品である以上、これをただのリアリズム劇のように、まるごと舞台に投げ出せば観客は理解してくれるだろう、という姿勢で上演されては困るのです。手順を踏んで主題に迫っていく工夫が求められます。舞台を見たかぎりでは、ドン・ジュアンのホモ・セクシュアリティーなど、どこかへ吹き飛んでしまったかのような印象を持ちました。
 もう1本は文学座の公演(アートスフィア)『モンテ・クリスト伯』です。3年前に上演されたものの再演ですが、今回、かなり台本も整理したとのことなので、新作舞台と同様に扱っておきます。
 それにしても、劇場に通う予期せぬ楽しみというのは、互いに関係のないふたつの作品を相前後して見ることで、それまで考えもしなかったようなことを考えさせられることにもあります。『ヴァローニュの夜』を見て、今度は『モンテ・クリスト伯』を数日を経て見ると、このふたりの主人公、ドン・ジュアンとエドモン・ダンテスをくらべてみようという気になります。これほど対照的なヒーローがいるでしょうか。かたや「誘惑と逃走」、ダンテスのほうは「忍耐と復讐」の男なのですからね。この二人が人生論を戦わせたら、いったいどうなるでしょうか。哲学的対話編が書けそうな気がします。
『モンテ・クリスト伯』はアレクサンドル・デュマの作品。少年少女読み物としてダイジェスト版も多々ありますが、『厳窟王』という題名になっている場合もあります。周囲の中傷から冤罪の濡れ衣を着せられて、離島に投獄されたダンテスが、苦節14年の末に脱獄に成功し、モンテ・クリスト伯と名前を変えて、自分を投獄に追い込んだ者たちに復讐をする、という話です。
 ところで、デュマはこの小説を自ら戯曲化はしていないのです。では、この文学座の上演台本はどのようにして作られてのかと言えば、これはまことに特筆に価することなのですが、演出の高瀬久男さんがご自分でお書きになったものなのです。高瀬さんは、少年読み物に頼らず、岩波文庫で大部の全7巻におよぶ原作を丹念に読み込み、これを3時間あまりの舞台台本に集約するという離れ業をやってのけました。公演プログラムにも紹介されていますが、日本でかつてNHKがラジオドラマにしたり、フランスでもドゥパルデューが主演したTVドラマ(約7時間)はあるのですが、舞台台本というのはまったく性質がちがうものですから、きわめて独創的な仕事を高瀬さんはなさったことになります。私は調べていないのですが、ひょっとすると『モンテ・クリスト伯』の上演台本というのは、フランスにもないのではないでしょうか。だとしたら、高瀬さんの日本語台本はデュマのフランス語に戻してみても価値のあるものなので、どなたか、おやりになったらいかがでしょう。フランス関係のドラマトゥルグなどという肩書きで仕事をしている私など、ああ、こういう仕事もまたドラマトゥルグの役目だな、と感じ入っているのです。フランスの小説を日本語で舞台化するのは、とても面白い仕事のように思います。また、その逆の作業もです。
 ただ、欲を言えばですが、高瀬台本は3時間という長丁場を牽引していくには、少々真面目すぎるのです。見ていてけっして、つまらくはないのですが、では、面白いか、というと、そうでもないのです。長丁場のためには、話の流れだけではなく、もう少しいろいろな味がほしいのです。笑いでもいいでしょう。ダンスでもいいでしょう。何かが欲しい、という気がします。この点、古典的なオペラの台本、それから何と言ってもモリエールの喜劇なんか、こういうところが心憎いほど巧くできています。コミック・リリーフという役どころの端役がでてきて、端役は端役の滑稽な筋書きを追うのです。それがちゃんと最後に主筋とつながってくる、というふうに出来ています。
 さて、エドモン・ダンテスの心の流れは単純です。好青年が獄中で復讐の鬼となり、復讐を遂げた暁に世界と和解する、という三態の変化です。高瀬さんもこれを単なる復讐劇にせず、「人間性回復の物語」として捉えていますが、それは正しいと思います。しかし、これはダンテス役の内野聖陽さんの演技とのかかわりもあるのですが、復讐のプロセスでダンテスの心の中に、疑問や苦しみが渦巻いていないと、最後の人間性回復が、何かとってつけたような印象になってしまうのです。内野さんが、ちょっとカッコよく復讐をしすぎるのです。煩悶もカッコいいと思うのですがね。
 内野さんのほうがドン・ジュアンみたいでした。

佐藤康 ドラマトゥルグ