ゴッホ 失われた6枚の素描をめぐる発見と探求の物語


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Marine Martigues ゥFrancesco Plateroti

 これから私がお話しすることが、芸術に情熱をもつすべての人々にとって、発見となることを望んでいます。非常に美しい芸術作品に多くの人がつねに接することができるわけではないにしても、美術、美術史、芸術家、ひいては作品探索者のために大きな貢献をなしうるのが研究者というものですから。

 私はエクス=アン=プロヴァンスで暮らしながら、不動産業のほかいくつかの活動を行っています。

 私はマザラン地区に住んでいるのですが、その近くにあるグラネ美術館には定期的に足を運んでいました。美術好きの人間だったので、美術館の資料係の方とお付き合いができ、いろいろな種類の研究について情報を得ることができました。

 1990年にグラネ美術館は、エクス=アン=プロヴァンスに生まれ、この地に暮らし、サント=ヴィクトワール山を画題としたセザンヌにオマージュを捧げました。前年の1989年、大規模な火災があり、この山の植生はことごとく破壊されていました。環境保護者のある調査では、山がかつての素晴らしさを回復するには、二十数年はかかるだろうと言われていました。そこでエクス=アン=プロヴァンス在住のおおぜいの人々、政治家や美術愛好家といった人々の発案により、サント=ヴィクトワール山をテーマとする展覧会の開催が決められたのです。この有名な山を描いたあらゆる画家の作品が、グラネ美術館の展示のために集められました。展覧会の入場料収益は、サント=ヴィクトワール山の植林・管理に使われることになりました。

 この年のある日の朝、私はプラタナス並木が心地よいミラボー通りを歩いていました。するとミシェル書店のショーウィンドーに、素晴らしい絵が一枚目にとまります。店に入って値段を尋ねると、「それは売り物ではないのです」との返事。売り物でないならどうして展示しておくのかと訊くと、店員は理由の説明ができる責任者の女性のところへ案内してくれます。彼女によると、私が見事と感じたその作品は、五〇年代にグラネ美術館の学芸員で画家でもあったマルセル・アルノーの作だということでした。

 私はさらに、この作品はサント=ヴィクトワール山を描いたものなのに、じき開かれる一連のイベントで展示されないのはどうしたわけかと訊きます。「グラネ美術館とアルノー家は意見があわず、アルノー氏の作品はあの美術館では展示できないのです」。「それは残念ですね」。私は言いました。お礼を述べて店を出ようとすると、責任者は近づいてきて言うのです。「この画家について詳しくお知りになりたければ、この人の孫娘に当たる方の住所をお教えしますよ。現在六十六歳になる方です」。住所をいただいて、この親切な女性にお礼を言いました。

 ただちに画家アルノーのお孫さんに電話をかけ、話を聞くと、確かにグラネ美術館とアルノー家とのあいだには問題があるとのことです。彼女が中心となって、エクス=アン=プロヴァンスにほど近いルールマラン城で、お祖父さんの作品の回顧展が組織されていることも教えてくれます。電話口で展覧会の開催日も書き留め、自分の祖父の作品について親切に教えて下さったこの女性にお礼を述べました。

 1990年3月のある日の午後、ルールマラン城のアルノーの回顧展を見に行くことにしました。20数キロの道行きはとても心地よく、早春の時期だったのでプロヴァンスはその魅力に溢れていました。

 城の入り口に着くと、扉が閉まっています。傍らに守衛の家があったので、典型的なプロヴァンス訛りの守衛さんと話し始めました。「お邪魔をして申し訳ない、開館時間を調べておかなかったものだから。」この親切な男性は、城の歴史やこの城を訪れた人々のことを語ってくれました(チャーチルも訪問したとのことです)。

 私たちは一時間以上もお喋りに興じました。職場との繋がりがこれほど密な人と出会うというのは稀なことです。私のほうも、彼にいろいろ知っていることを語ります。私は1947年、アオスト渓谷の生まれですが、そこはエマヴィル城、フェニス城、サール城、サン=ピエール城といった美しい城が存在し、数々の伝説も伝わる地であるというようなことを彼に話しました。この感じのいい男性はついにこう言ってくれました。「あなたは信用できる方のようだ。城の鍵をお貸ししましょう。城内をご覧なさい」。彼はアルノーの作品が展示されている部屋の場所もちゃんと教えてくれました。私の驚きは察していただけるでしょう。たったひとりで城を見学できる、僅かの時間とはいえこの城を独り占めできるというのです!
 
「アルノー」の部屋へ行くまでいくつか部屋を通りますが、それぞれの部屋には立派な大きな本棚があり稀少な美術書がおさめられていました。また、アルノーの作品が展示されている部屋の入り口の上部にウージェーヌ・ドラクロワの非常に美しい小品が懸けられているのにも気づき、この守衛さんが城の見学を許可してくれたことに、私はあらためて感謝の念を覚えます。
 
 その後、私は画家で美術講義もしていたこの学芸員の絵に惹かれはじめます。陳列は完璧とは言い難く、作品間の連関には統一感も欠けていたのですが、私は感嘆していました。なんという幸福であることか!幾枚ものサント=ヴィクトワール山を描いた作品、幾枚もの肖像画、一枚の自画像、数枚の静物画と、全部で三十枚あまりの作品が並んでいて、この芸術家の才能を評価するには十分な数でした。二時間ものあいだ私はそこにいたのですが、額もまた非常に良いものでした。こんな調子で私は見学を終え、守衛さんに鍵を返し、また少しばかり城についてお喋りをして、彼に厚く礼を述べます。自分の車のほうへ歩いていくとき、この心地よく美しい午後のひとときを記憶しておこうと、再度振り返って城を見つめたものです。
 
 その折りに、私は古道具掘り出し物市の開かれる村祭りを知らせるチラシを見かけたのです。チラシはプラタナスの木に鋲で留めてありました。南仏では、木に画鋲で留めたこうしたチラシをよく見かけます。これもプロヴァンス的なものです。紙に日付を書き留め、道を進んでいきます。帰宅すると家で誰もがすること、つまり、ポケットの中を空にすることを行い、あれこれの物や祭りの日付を記したメモを取り出しました。幼年時代より、私はいつも村祭りが大好きでした。そこには地域の本物の伝統、民間伝承、職人技術があり、言うまでもなく名物料理がある……。私はおいしい料理には目がない性質ですから、こんな機会を逃すわけにはまいりません。手帖に祭りの詳細を記しておきました。そして、何週間か経ったある朝、手帖に記した開催日が目に入ったのです。

 その日は土曜日で午前中11時半まで仕事があったのですが、それを終えると祭りが行われるアルル近郊へ向かいます。車を停め、職人や農家の人たちが、自分の作った品々を並べている裏通りへ歩を進めます。そこで目についたのは、地面にじかに置かれている、素描が六枚入った額です。素描はちょうど付属品の写真のように、ガラスが入った額に並べられていました。

 私は訊ねます。「素描が重なって入っているこの額はいくらですか?」。素描は額より大きく、一部分しか見えなかったのです。古物商の返事は600フランとのことでした。素描一枚につき100フランで計算したのでしょう。彼は知り合いらしい婦人と話をしていたので、会話に割り込んだことを詫びつつ、額の購入に関心があることを伝えます。「きっかり600フランしか手持ちがない。小切手もクレジット・カードも持ってこなかった。家がエクス=アン=プロヴァンスなので、帰りの高速道料金、ガソリン代も要る。正午半ですが、昼食もまだなんです。二回の分割払いにしてもらえませんか」。「あなたはちょっとイタリア訛りがあるね。良い方みたいだから、額と素描は400フランにまけてあげる。それでいいかね」。私は同意して言われた金額を支払うと、ただちに額を抱えて車に向かいました。

 もうひとつエピソードがあります。額を買ったとき、しばらくのあいだ売り主と話をしていた婦人は私を見てこう言ったのです。「残念ねえ。このきれいな額、買いたかったのに」。思うに彼女はちょっとのあいだお喋りをしていただけで、その時はっと我にかえって額を思い出したのですね。何ともはや。
 こうして私はエクスへの帰途についたのですが、買った品物の方に目をやる度に嬉しくて、額を開いて中の素描をよく見たい、その本当の大きさを確かめてみたいという気持ちでいっぱいでした。先ほど言いましたように、素描は額の中に重なり合っていましたから。自宅に戻ると、カッターを手に取り、額の背面に貼られている紙を注意深く剥がしにかかります。そして釘を外すと、素描は長いこと触れられていないのがわかります。額が開くと、居間のテーブルの上に六枚の素描を拡げます。注意して見ると、かなり明瞭に判読できるかたちで〈ヴィンセント〉の署名が見える。額の内で折り重なっていたときは、署名は他の素描に隠れて見えなかったのです。美術鑑定家ならそうであるように、私の蔵書のなかにも、さまざまなヴィンセント・ヴァン・ゴッホをめぐる書籍があります。芸術家の署名やモノグラムが多数掲載されている英語の本も持っていました。ヴィンセントの署名を見ると、明らかに素描のものと類似しています。

 私の感動がどれほどのものだったか、ご想像していただけるでしょう。それから私はヴィンセント・ヴァン・ゴッホの手紙を片っ端から読み、調査を開始しました。調査というものはまさに至福の時です。ガリマール社が出している三巻本、ヴィンセントの弟テオへの手紙を是非お読みになることをおすすめします。いちばん私が興味を惹かれたのは第三巻です。そしてヴァン・ゴッホの偉大な専門研究者であるラ・ファーユの著作、次いでロナルド・ピックヴァンスの本を調べますと、492番の手紙のなかで六枚一組の素描について触れられていること、それらはゴーガンの部屋に飾るために描かれたものであることを確認したのです。とすれば、これは失われたと考えられていた《日本の版画帖》のことではないか。これはありうべき目印でした。ゴーガン宛ての別の手紙ではフィンセントは将来の自分の部屋の装飾について語っており、そこには「この地方の変わらぬ場所」を描いた素描も付けられていたのですから。
 
プロヴァンスについての知識が少々あり、以上のような手がかりを得たので、ヴィンセントの名が署名されたこの素描に描かれた場所を探しに出かけることにしました。六枚の素描の題は以下の通りです。

《タラスコン城》
《アルルの女》
《グレーズ橋》
《レ=ボー=ド=プロヴァンス》
《マルティーグ》
《詩人の公園》

《タラスコン城》の[場所]は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホがタラスコンに滞在していた時期である1888年に撮られた写真があったので容易に見つけることができました。

 《アルルの女》のためには何度もアルルに行きました。その地の美術館ではアルルの案内書をあれこれ開いて調べたのですが、素描に描かれている衣装がまさに、ゴッホがアルルで暮らしていた時代のものであることが判明しました。[絵]の左側の若いほうの女性の衣装のレースには〈ヴィンセント〉の署名が読みとれることを発見しました。

 《レ=ボー=ド=プロヴァンス》についてはいくつかの困難がありました。ここで、場所探しのあいだに私が学んだ方法をみなさんにお聞かせしましょう。写真しか手がかりのない場所を探しているときはタクシーの運転手に尋ねてみるのです。アルルとその近郊地域を訪ねて廻っていたとき、出会ったタクシーの運転手は素描の写真を見て、「レ=ボー=ド=プロヴァンスの方へ行ってごらんなさい。たぶんそのあたりですよ」と言ってくれました。

 ヴィンセントの手紙を読むとこの地である可能性はある。私はレ=ボー=ド=プロヴァンスで丸一日過ごす計画を立てました。そこはすばらしい土地で、岩石におおわれた中世の村です。ヴィンセントはこの地で闘牛の情景を描いています。村の路地を歩いていくと本道のフール通りに出て、この通りを進んで前世紀のパン焼き釜で知られる村の高台のほうへ向かいます。道をのぼっていくと左手に作業机を通りに出しているクレープ屋がありました。通りは狭くて、クレープを作っている人に触れずには通れないほどです。私は四十代のこの男性に声をかけ、写真を見せます。「すみません、この写真の通りはどこだか教えて下さいませんか」。彼は私を見てはっきりこう言いました。「振り返って見てごらんなさい」。振り返ると私は息をのんで立ちつくしてしまいます。目の前にあるのは、まさしく素描の写真そのものの風景だったのです。

 それは大きな感動の瞬間でした。私の探求が実を結び始めたのです。発見の悦びにひたって、私はこのクレープ屋の男性を抱きしめ、居合わせた人々にはクレープを十皿ばかり御馳走したほどです。自分でも食べましたが、このクレープ屋さんの料理の才には感心しました。そして写真を数枚撮って、ヴァン・ゴッホの手紙ではっきりと言及されていた土地の発見を土産にこの地を去ったのでした。私はまた、ヴィンセントの(目録に記録されている)ある作品がレ=ボー=ド=プロヴァンスの麓、ちょうど標高800メートルの地点を描いたものであることも発見しました。教養あるヴァン・ゴッホがレ=ボー=ド=プロヴァンスに強く惹かれていたことは明らかです。

 私は六ヶ月で、六枚の素描のうち三枚が描かれた場所をつきとめたわけです。次なるは《マルティーグ》。写真を手に探しに出かけます。何人ものタクシーの運転手に質問し続けた結果、幾度もボーケール、タラスコン橋の対岸に行くことになったのですが、首尾よく発見とはいきませんでした。ところがある日、マルセイユ地方に詳しいある運転手が、大俳優レミュを思わせるアクセントでこう言ったのです。「あなた、それはマルティーグですよ」。ふたたびヴァン・ゴッホの手紙を繙きますと、そのうちの一通にマルティーグのことをほのめかしているところがあるのです。この時期、一年のうち、仕事がかなりきついスケジュールで入っているのですが(10月でした)、ある晩マルティーグ行きを決心します。この街を歩いてまわると、わりと楽に素描の場所を見つけることができました。というのも土地の人はみな、「鳥鏡[Le Miroir aux Oiseaux] 」の名でこの場所を知っていたのです。この名は南仏の季節風ミストラルが激しく吹くと、かもめがここに避難しにやってくることに由来します。

 こうして残るは二枚の素描、《グレーズ橋》《詩人の公園》の土地の発見だけとなりました。

私は当時エクス=アン=プロヴァンスの中心街に、素敵なワンルーム・マンションを一部屋所有していました。プロヴァンス・スタイルの古い家具付きの陽当たりが良く快適な三階の部屋で、美しい静かな庭に面していました。絵の調査のための資金繰りが続けられなくなってきたため、私はやむなくこの部屋を売却しました。この素描には犠牲を出すだけの価値があると感じていましたし、すでに素描の何点かを損傷と忘却から救うことができたわけですから。

 この件がすんで調査の継続が可能になりました。まず《グレーズ橋》ですが、この素描には手書きの書き込みがあったため、筆跡鑑定人に鑑定依頼をすることにしました。鑑定に影響を与えないよう、この素描が〈ヴィンセント〉の署名の付いた素描数枚といっしょに額に収められていたことは伏せておきました。三週間後、司法関係で有名なこの鑑定人は電話をかけてきてこう質問します。「プラトロッティさん、〈グレーズ橋〉、〈1888年アルル〉といった言葉に心当たりがありませんか。これが素描に判読できたものなのです」。言葉を書き留め、電話をくれたことに礼を言い、ただちに所有しているファン・ゴッホ関連書をあさり、〈グレーズ橋〉という題で、〈アルル、1888年〉と日付の付いた一つの作品を見つけます。あらたな道すじが私の前に開かれたのです。

 こうして私はグレーズ橋を探しに出発しましたが、調査は容易ではありませんでした。誰もがこの橋の所在地を忘れていて、アルル観光案内所でさえ情報がないようなのです。私は土地台帳にあたりますが、記録文書は39−45年の戦争中にことごとく廃棄されていました。それにもかかわらず私は調査を諦めませんでした。数週のあいだ、アルル地方のあちこちに足を運び、場所をつきとめようとしました。そしてある日、年齢は八十五才を越えようかというご婦人が、この橋のある場所を教えてくださったのです。この橋も戦争中に破壊されていたのですが、橋のあった場所には一軒の農家があり、その傍らに岩石で作られた橋台が残っていて、そこには「グレーズ橋」と記載のある七宝細工の板がねじ止めされていました。

私の写真はこの橋の地点から撮られました。この農家の所有者はファン・ゴッホの時代にこの家に住んでいた人の子孫で、重要なインスピレーションを与えてくれました。もっとも、写真を現像してみると、このグレーズ橋の地点でヴァン・ゴッホは何枚もの絵や素描を仕上げたことは明らかで、そこに描かれているブロンズ塔とサン=トロフィーム教会は私の写真とちょうど同じ角度から見えるのです。よってこの場所は、ヴァン・ゴッホの人生とアルル滞在において、非常に重要な土地であったのです。

《グレーズ橋》の素描は、フランス以外の国の別の筆跡鑑定人にも依託し、ヴィンセントの手紙の筆跡と素描の筆跡を比較してみてほしいと言ってありました。鑑定人の判断は「これらの筆跡は同一人物のものである」。まさしく第一回目の筆跡調査の正しさ、そして私の土地発見の正しさを確証するものだったのです。私の感動がどれほどのものだったかご想像ください!
 
 あとは、ベンチとデッキ・チェアのある公園(庭)の発見だけが残されました。
 私は公園に魅了されてしまい、一晩中公園のことばかり考えていました。その結果、私と何年か生活を共にした女性はある晩、「寝なさい。もう遅いわよ」。「もうすこしで見つかりそうなんだ、もう少し絵を調べないといけない」。すると彼女は「私があなたの絵よ」と言いました。けれども現在も公園は人を夢中にさせる謎とともにここにあって、彼女のほうは行ってしまいました…。

 私はその時信じられない発見をします。それは交錯した木の枝のあいだにいくつもの顔が隠されているという新事実でした。この作品群は自然と人間にオマージュを捧げたものであり、そこには水面上にうつったヴァン・ゴッホの自画像や、花々と木々の曲線部分にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、レンブラント、ペトラルカ、ゴーガンといった人々の顔があったのです。誰がこんな作品を想像し得たでしょう。《詩人の公園》にはさらにモンティセリ、ダンテ、ジョットー、ヴィクトル・ユーゴーの肖像が見られ、ウィリアム・スモールによれば「人々の顔」は、ウージェーヌ・ボッシュ、ホメロスなど六十人以上の芸術家や画家、詩人のものであり、木々に「取り付けられている」。さらに馬やライオン(獅子)、フィンセントによる唯一のアナモルフォーズ[歪像画]もあり、それはペガサスを表象しています。

 そのころ、私の知り合いの一人が、ファン・ゴッホとその書簡に詳しく、著書がいくつもある人としてルネ・ユーグ氏の存在を知らせてくれました。

 ルネ・ユーグ氏はアカデミー・フランセーズの会員で、パリ八区にあるジャクマール・アンドレ美術館の学芸員でもありました。こうして、私は電話で長いこと彼と話し、私の信じがたい冒険と顔の発見の件を伝え、《詩人の公園》の写真を送付しました。彼は写真を子細に検討し、美術館で会う日取りを決めてくれました。その美術館はなんとも豪華な場所でした。大きな階段をあがった二階に彼の執務室がありました。彼の応対は真心がこもっていて、誠実さが感じられました。背が高く、かなり高齢だが明晰さと深い学識を備えたこの人物は、二時間ほど対話してからこう言いました。

「プラトロッティさん、おそらくあなたは調査の糸口をつかんでいらっしゃる。その《詩人の公園》はファン・ゴッホによって描かれ、のち失われたのですが、彼の書いたものによると、それはもっとも重要な作品の一つであるとみなされているものです。あなたには長い道が待ち受けている。ファン・ゴッホの全作品、彼の手紙、彼の知識、芸術家たちの知己、画商などを調べ出す必要があるでしょうから」。

 私は彼の助言をしっかりと書き留め、調査の進度を知らせることを約束して、彼に別れの挨拶をしました。こうして数カ月にわたって、《詩人の公園》のなかに新たな人物を発見する度ごとに、彼に知らせることになります。

 私は《詩人の公園》がアルルのリス公園であることを発見しました。ファン・ゴッホはその公園で定期的に散歩をし、彼の解釈では象徴的な公園になり、彼の精神的遺言になったのです。
 
 友人の家の夕食に招待されると、私はその度にこれら有名なヴィンセント・ヴァン・ゴッホの素描のために何がおきたかを語っておりました。ある日の夕食の席には法律家で法学の教授であり、かつ美術と美術史に詳しい人物がいました。司法鑑定によってこれらの作品の真偽を確定できる可能性がある、とその人は言いました。さらに彼は付け加えて、「だが司法鑑定では反論が認められていない。鑑定時に矛盾が見つかれば、異を唱えることはできないでしょう。真実にじかに向きあわねばならないわけです。この賭けを受け入れる覚悟はありますか」。即座に私はこの素描について真実を知る決意をします。さらなる努力を重ねる覚悟はできていました。けれども、素描の場所をつきとめたという確信はありましたし、リスクはあっても限られたもの、僅かなものであろうと思われたのです。
 かくして私の弁護士は司法鑑定を受けるために必要な全書類を準備しました。

科学警察研究所とその他の専門家による一年にわたる調査が必要となりました。そして1991年の暮れ、370ページ以上もある鑑定書を受け取りに行ったとき、私は人生で何かを成し遂げたという気がしました。

 この報告書の結論です。「これらの素描はヴァン・ゴッホの手になるものである」。

1992年11月17日に、パリのシャンゼリゼにあるエスパス・カルダンで私の発見を発表するため記者会見を行いました。いろいろな方が来てくださいました。科学警察研究所のコルボベス氏、ファン・ゴッホについての著書で知られるヴィヴィアン・フォレステル夫人、司法関係の筆跡鑑定士ジェズネール氏。報道陣は興奮で沸き立っていました。

1993年のある日、すなわち調査作業から三年が経過し、書類と1700枚を超える写真が山になったとき、こう思いました。「この素晴らしい《日本の版画帖》を展示して人々に見てもらったらどうだろうか」。こうして150枚の写真と私の調査資料のすべてを、およそ30枚のパネルで展示してもらうことになりました。

 エクス=アン=プロヴァンスとマルセイユの近くにある非常に美しい港町、カシスで最初の展覧会が催されました。展覧会はその後、ジュネーヴ、パリ、モルツィーヌ、レ・ジェツ、サロン=ド=プロヴァンス、ル・トゥーケ、ル・ポンテ、ベネツィア、サン=トロペ、バルドリーノ、ラ・ボウルを巡回し、同様に[ブック・フェア]のサロン・ド・リーブルでも展示が行われました。2003年現在、40回目の展覧会に私は立ち会っていることになります。何千人もの熱心な見学者に、この大変重要な展示を楽しく見ていただきました。展覧会で私は週に何回かはヴァン・ゴッホにめぐる講演を行い、ジャポニズムについて、ジャポニズムのヴァン・ゴッホへの影響について話しました。《詩人の公園》をめぐっては、絵に隠された人物について、ヴァン・ゴッホが「取り付けられた」と言っているあらゆる人物についてかなり時間をかけて発表しました。私は自分がヴァン・ゴッホの願いに応えられたことを望んでいます。彼はこう書いたのですから。「芸術のレッスンであるような展覧会をつくること、人々が学ぶことができ、複製とともに帰ることができるような展覧会をつくること」。そして私の展覧会が見学者の方々に真の芸術のレッスンそして幸福ととらえて頂けることを願っています。

 十年来、私はおよそ750枚の日本の版画を収集し直してきました。重政、春信、政信、春章、春英、北斎、広重、豊国、歌麿、国芳といった大家たちです。素晴らしい「浮世絵」の版画を見ていると、ファン・ゴッホや印象派の画家たちがこぞって日本版画に抱いた大きな関心が理解できます。

 さまざまな印象派のグループがみずからの道を見出し、今日全世界が評価している芸術的メッセージを伝えられたのは、日本の版画芸術のおかげなのです。

 最後に、私は多くを教えてくれたヴァン・ゴッホに感謝の意を表したい。彼はなんと知性的であったことか。なんと学識豊かであったか。そして彼はしばしば描かれてきたような狂人ではないことを私は理解しました。何年もの調査のあいだ、ヴァン・ゴッホの行動は人間的であり、非常に明晰なヴィジョンを具えた人間のものであること、芸術や作家にあるヴィジョンばかりではなく、人間存在のヴィジョン、その思考と行為において規定される一人の人間のヴィジョンであることを理解したのです。L・ローランドが1953年の著書のなかで記しているように、ヴァン・ゴッホの真の物語は知られてはいない……。「画商グーピルの語る」物語と混同されているのです。事実、ヴィンセントの弟テオはグーピル商会に勤務していたのですが、ヴィンセントの死に際し解雇されました。マーク・エドー=タルボーは次のように断定しています。「奇妙にもヴァン・ゴッホの疑惑ある死については、武器、憲兵の調書、医学鑑定、死亡場所の証明、さらには目撃者もまったく見つかっていない」。

 おそらくこうした点にも、まだ発見されるべき事柄があるのではないでしょうか?

パリ 2003年5月
フランチェスコ・プアテロティ

Le château de Tarascon ©Francesco Plateroti