VUETHEOROS06
「明晰ならざるもの…」
ジャック・ラサール演出『ガリレイの生涯』(B・ブレヒト作)
松原道剛


 1992年にヴァチカンは、ガリレオ・ガリレイの異端審判に過ちがあったことを350年を経て認め、二千年紀のこの春には、この一千年間を振りかえるなかで、あらためてこのことに触れていた。かといって、もちろん、ブレヒトの『ガリレイの生涯』の主人公を実在の人物と重ね合わせることにどれほどの意味があるのか、疑ってみる必要がある。
 ガンベッタの広場からひとつ入った広くない通りに面している、このコリーヌ国立劇場の大きいほうのホールは奥行きと比べるとやけに間口が広い、この地でもとかく批判される横長のプロポーションのステージであり、そこから対面式の急なスロープの客席が広がっている。左右に二段あるバルコニーは、客席への出入口などになっていて椅子は並べられていない。
 その間口の広い、そしてそれ自体が奥行きのあるプロセニアムにおろされた紗幕に、ワープロのように台本にもある各場の要約が光で打ち込まれていくなかで、幕があがって開演である。「パドヴァの数学教師であるガリレオ・ガリレイは、コペルニクスの宇宙体系についての新学説を立証しようとする。」            ベージュのモノトーンの背景幕には、幾何学模様の点と線の数本のトレースが描かれ、いくつかの星座が描かれている。舞台には大きな机と、太った素っ裸のジャック・ウェバーのガリレオが水浴びをしている大きな桶があるだけである。かれはアンドレアに手伝ってもらって体をふいてガウンをまといながら、椅子やりんごを用いて、まだ10歳にしかならないこの少年に、地球が太陽の周りを回っていることを説明する。
 「直線は2点の、最短距離を結ぶ」という台詞にフランス語で数学を学んでいたら、などという他愛の無い想像が頭を横切ってしまう。舞台は終始明るく照らし出されて、一点のくもりもない。すぐに少年の母親であるサルティのおかみさんが登場し、オランダからの望遠鏡のニュースとともに家庭教師を依頼にきたルドヴィーコが登場する。何という見事なテンポであろう。
 この小気味よい展開に高校生をはじめ若者が多い客席も、あっという間に舞台に引きずり込まれてしまう。役者たちの仕草や立ち居振る舞いにいかなる躊躇もなく、計算しつくされたそれぞれの厳格なシーン構成に、不思議と広い間口の舞台も苦にならないかのようである。
 パドヴァのガリレオの書斎、就職活動によって引っ越したのちのフィレンツェの家をはじめ、ヴェネツィアの兵舎やローマの教皇庁など、場面はさまざまに移り変わり、また新しい劇場技術だとある光で打ち込まれる各場の要約が、それぞれの場面の転換を明確に区切ってはいるが、明るく照らし出された舞台には終始同じ背景幕が釣り下げられ、装置なども冒頭の大きな机やそこが上階であることを示す切り穴からの階段の手摺など、最少限に限定されている。
 それに何といっても役者が素晴らしい。ほとんど出ずっぱりのガリレオをはじめ、かれが「先客万来だ」というまでもなく、舞台に入れ替わり立ち替わり登場する16人の俳優は、主人公の娘役や友人役などの市民、それに教皇、僧侶などの教会関係者や学者など、全部で50以上の登場人物を見事に演じていた。それでいながら、どの役者の演技もけっして芝居臭くないことにわたしは心底から驚かされてしまった。市民であるガリレイは、給金の少ないことを嘆いてみせたり、宗教者の科学に対する理解のなさに憤ったりするにせよ、淡々としていてスムースに筋が展開していく。舞台には終始、緊張感というのでもない、何か不思議な充実感が満ちていたことは事実である。
 ガリレオは望遠鏡を新発明品だとして、ヴェネツィア共和国に売り付けて金儲けをしたり、それを用いて4個の木星の衛星を発見し、太陽の黒点を観察したりする。そして後半には、それらの逸話と同じように、年老いたガリレオは教皇庁の異端審問にかけられると、コペルニクスの地動説への支持をあっさりと撤回してしまう。
 ブレヒトがこの戯曲を書いたのはヒトラーのナチスによる第二次大戦中の亡命先のアメリカにおいてであり、また広島への原子爆弾の投下を目の当りにして初稿が書き直されている。その経緯のなかに、科学と市民社会との関係を読み取ることもできる。しかし、かといってブレヒトはこれを科学者の悲劇として書いたのではないと思うし、300年前のガリレオを賞賛も、糾弾もしていないのではないだろうか。
 そして、そのような歴史上のガリレオではなく、つねに研究に没頭するための手だてを探る市民としての科学者の姿を、演出家は明るく照明されたシンプルな舞台装置のなかで、淡々と描き出そうとしたのではないか。そのことによって、アノニムといいかえてもよい、一人の科学者の真実の姿が、観客の現前に立ち現れてきていたように思える舞台であり、わたしたちはその舞台をそのまま受取ることができたように思う。そして、それで十分なのだという満足感を得ることができた。ちょうど、A・ヴィテーズのために訳されたという今回のエロワ・レコワンのフランス語のテクストの明晰さのように。
             (2000年3月24日コリーヌ国立劇場大ホール『テオロス99/01』所収)

テオロスフォーラム2004年連続セミナー『ブレヒトの写針詩』(講師岩淵達治)

http://www.ne.jp/asahi/theoros/forum