演劇フラヌリー第11回
ジンガロの幻術


Photo: Antoine Poupel

騎馬劇団ジンガロの東京公演を見に行きました。東京木場公園に大がかりな特設会場をつくり、3月12日からゴールデンウイーク明けまで、全42ステージに及ぶ長期公演です。この公演が行われるまで、日本ではジンガロの名は、一部のフランス通か馬術愛好家だけにしか知られていませんでしたから、新聞やテレビを通して大規模な広報戦略が展開されました。なにしろ、馬が成田空港に到着したことや、公開稽古の様子までもが新聞に記事として掲載されたのです。テレビもタレントを出演させて、ジンジンガロをテーマにした特別番組を放送しました。こうした総力を挙げての宣伝もあってか、ジンガロ公演のチケットは、来日オペラ並みの値段となりました。最高席が24,000円、最低席が8,000円です。しかし、調べてみると、この東京公演後に行われるスイスでの公演も、入場料は最高席が120ユーロ、最低先が57ユーロとなっていますから、日本での最高席に当たるプレミアムシートを除けば、ほぼ同額の入場料といえます。宣伝費などが転嫁されていることを考えれば、むしろ協賛企業が頑張って支援した、という評価をすべきかもしれません。協賛企業の中でも目立つのは高級ブランドのエルメスですが、これはエルメスがそもそも馬具の製造会社だったことを考えれば、納得のいく関係です。

さて、座席のポジションとチケット代について言えば、舞台から遠い8,000円の席でも、舞台から遠い感覚は全くなく、どころか全体を俯瞰できる最良の位置なのではないかと思われるくらいでした。この文章をお読みの方で、見に行こうか行くまいか迷っていらっしゃる方がいらしたら、8,000円の席でも遜色はありません。ぜひともご覧になってください。

ジンガロはバルタバスが主催する騎馬スペクタクルの劇団名です。バルタバスは芸名で彼は本名を明かしません。ジンガロという名は劇団結成当初の一座の主役だった馬の名前です。イタリア語でジプシーという意味です。ジンガロは1980年代の中ごろから活動を始めて、フランス国内にとどまらず世界各国で高い評価を確立しています。今日ではパリ郊外のオヴェルヴィリエに専用劇場を持つほか、近年バルタバスはヴェルサイユにある国立乗馬スペクタクルアカデミーの学長にも就任しました。これはフランス政府がバルタバスのために特別に用意した学校だと言ってもいいでしょう。このことに見られるように。バルタバスとジンガロ劇団は、フランスの舞台文化の中で大きな位置を占めているのです。

ジンガロのスペクタクルは馬術と演劇と音楽の総合芸術です。馬術だけをとってみても、これはまともに馬に乗ったことのない私には評価する資格はないのですが、数々のアクロバット的な騎乗ぶりが次々と披露されます。手綱を持たずに乗るのは言うに及ばず、馬上に立ちあがったり、逆立ちをしたり、間違いなくこれだけでも曲馬パフォーマンスとして超一流のものでしょう。けれどもジンガロが事を馬術に限ってみても他と本質的に異なるのは、パフォーマンスを行うのが人間だけではないことです。素人が見ても自然状態の馬には存在しない足の運び、歩のリズムが随所に見られます。圧巻はバルタバスの騎乗ぶりで、手綱を放したまま馬を回転(ピルエット)させて、その上で両腕をひろげて優雅に舞うのです。よく見ると回転運動の中心になっているのは馬の後ろ脚で、その着地点は数十センチと動きません。ジンガロの舞台は伝統的なサーカスと同じような円形のサークルですが、サーカス的なセノグラフィーを採用していても、スペクタクルはサーカスとは全く趣を異にしているのです。

ジンガロの舞台が演劇的であることは、まずスペクタクルにテーマが明確にあって、つまり、ひとつのスペクタクルが統一的な世界観や思想を表現しようとしていることです。これは自身の公演を馬術オペラ、あるいは馬術キャバレーと称していた1980年代よりも、90年代の後半になってますます前面に押し出されてきた傾向ですが、こうした思想的な深まりは常に前作を超える奥行きを獲得し、今回の『ルンタ』(風の馬)は、現在までの頂点を形成する作品だと言えるでしょう。そしてここでも、演じているのは人間というより、馬自身だと言える場面が少なくありません。何頭もの馬だけが不動の姿勢で舞台に立つときの美しさ、そこにはどこまで計算があるのでしょうか。いや、たとえ計算があったとしても、それをどのように馬に伝達しうるものなのでしょう。まるでジンガロの馬は俳優として、ポジショニングに対する絵画的な美意識を持っているかのようなのです。照明の美しさについてはあらためて述べるまでもありません。美しい光の中に浮かび上がる馬はとても幻想的です。

ジンガロは音楽については一作ごとに実験的な試みを行っています。しばらく前はジプシー系の音楽を多用していたのですが、最近では韓国民族楽器(『エクリプス』)、またストラヴィンスキーの音楽、そして今回はチベット仏教僧による典礼音楽です。そこにアフリカの民族楽器も組み合わされています。このスペクタクルにおける音楽の響きの効果は、公演を記録した映像からは決して経験することができません。とりわけ、チベット僧たちの声明は、何事かが生起する空間の中で体感するべきものです。

さて『ルンタ』について実際に見た感想をお話しましょう。しかし、これはある種の感動であるには違いないのですが、非常に言語化するのが難しい感動なのです。それが何なのかを自分でもつきとめるために、今一度公演を見たいというのが正直な気持ちです。公演を楽しみに待っていた時よりも、公演を見終わった今のほうが、『ルンタ』を見たいという欲望が胸に迫ってくるという、不思議な体験なのです。それは、この作品が観客に経験させるのが、ドラマでもなければ情動的なものではないからでしょう。あえて言えば観客は『ルンタ』を通して、言語や情緒に還元されない「象徴」を体感するのでしょう。『ルンタ』もジンガロのスペクタクルがおおむね常にそうであるように、いくつかのシークエンスの連続として構成されています。全体はバルタバス扮する一人の僧が見る夢として構成されているかのようにも思えます。死の舞踏を思わせる悪霊たちの出現があり、それが人々を苦しめ、そして僧の祈りによって退治され、チベットの高原には若者たちが騎馬を競い合う祝祭が戻ってくる、という物語があるかのようにも読めます。それは舞台をすっぽり覆うドーム状の紗幕の向こうに広がる幻想と、そのドームをリフトしての場面の交錯からもうかがえる、ひとつの物語です。しかし『ルンタ』をドラマとして見るとき、その印象がいささか脆いものとなるのは、ジンガロがひたすら馬と人間の演劇であるがゆえに、物語という、人間に不可避的にこびりつく意味の口実を消し去ってしまうからかもしれません。いわばジンガロの舞台に表象される人間は、文明も文化も剥ぎ取られた宇宙の中の存在、いや無として表れているのです。これは『ルンタ』の通奏低音であるとともにライトモチーフでもあるチベット仏教の、きわめて密教的な主題の反映であるかもしれません。ともかく『ルンタ』は見る者に忘却を強いてくるのです。
この忘却の体験は観客が劇中に同化することによって得られるイリュージョンのはたらきによるものではありません。ジンガロが舞台に追求するのは、同化を許さない強度を備えたあるビジョンの連続なのです。フランス版のジンガロのサイトのトップページにはバルタバスの次の言葉が紹介されています。—私は時折、馬の目の中に人間の誕生する以前の非=人間的な美しさを見る。—

ジンガロが現代のシャーマンであるかのように語られることがあるのも、あながち的外れではありません。しかし、このシャーマンの幻出させる世界は、それが騎馬スペクタクルである点で、同時にきわめて民衆的なサーカスの想像力とも親しいものなのです。おそらく少なくとも演劇史においても、これほどまでに深い象徴性を持ったスペクタクルは稀有でしょう。バルタバスについて詳しい書物『美しき野蛮人、バルタバス』ジェローム・ガルサン著(増澤ひろみ訳 河出書房新社)が今回の公演に合わせて刊行されます。あとはその書物に解説を譲ることにしましょう

2005年4月
佐藤 康(ドラマトゥルグ)