演劇フラヌリー 第6回 

公共劇場の役割とは?


 今月(9月)はフランス作品を見逃してしまったので、劇評ではなく、大局的な話をしたいと思います。数年前から日本でもあちこちに公共劇場が誕生するようになりました。先日も東京では、北千住にひとつできたばかりです。民間の劇場は、要するに「商売」ですから、採算が合うようにフリーハンドで公演を作っていけばいいわけですが、公共劇場には税金が投入されています。その意味では市民全員に公共劇場のあり方を考える権利があるわけです。そして、劇場を作ることを含めた、国や自治体がめざす文化政策のモデルとして「文化大国」フランスの公共劇場がしばしば引き合いに出されます。フランス型の公共劇場が日本にただちに実現するとは思えませんが、先進的な例をどのように日本に生かしていけばいいか、よく考える必要がありそうです。
 まず基本的に知っておいてほしいことは、日本でもずいぶんと行われるようになっている演劇に対する公的助成が、劇団の個別公演に対する助成と、「拠点事業」という特定の劇場あるいは劇団(公共・民間の差なく)に対する助成の2種類に大別されることです。これは基本的に公共「劇場」それ自体に対して助成金を出すフランスとはしくみが違います。フランスでは一般的に公共劇場の運営全体に対しての助成が行われるので、公共劇場は料金が安く、民間劇場は料金が高いという傾向が生じます。公共助成は入場料に還元されてこそ当然なのです。ところが日本ではまだ、そのスタイルが十分に実現されていない現状です。正直に言えば、日本では助成金が制作経費のタシとしてしか使われていないのです。もちろん、それによって公演が可能となる場合も多々あるので、それが文化振興に寄与する意味はあります。無駄金だとはあえて言いません。しかし、市民に直接それがサービスとして還元されてはいないのです。助成はするが料金に制約を設けないのではタレ流しの批判を免れないでしょう。公的助成が投入された公演は、一定額以上の入場料を取ってはならない、といった条件の設定が必要と思われます。
 日本の公共劇場の大部分は「ハコ」でしかありません。立派な劇場はあっても、劇場には公演を制作できる人も金もありません。つまり貸しホールと大差ありません。しかし、これに対する批判はかねてからあり、水戸や静岡、また世田谷が先鞭をつける形で芸術監督が置かれ、その運営責任のもので公共劇場が芸術創造の主体となる例がふえてきました。これはヨーロッパ型の公共劇場への一歩を踏み出す画期的なことでしたが、近年、自治体財政が縮小していくなかで劇場がしだいにお荷物となり、芸術性第一のポリシーが維持できなくなっているケースが見受けられるようになりました。芸術監督制の廃止にふみきった劇場もあります。日本では集客能力があるのは本格舞台俳優よりも、何と言っても泣く子も黙るタレント様なので、そういうキャスティングを優先させて、採算をクリヤーしなければ劇場の存続自体も難しくなっているのです。
 この趨勢でいくと芸術監督制の日本への導入は失敗に終わります。採算のとれないものであるから公共が支援するのだ、という公共サービスの思想が欠如している風土に、そもそも公共劇場は不可能なのです。
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そこでフランスの公共劇場について解説してみたいと思います。フランスの公共劇場は①国立劇場 ②市立劇場 ③国立演劇センター ④国立舞台 ⑤地方演劇センターの5つに分類されます。
①国立劇場
 コメディー・フランセーズは古典から現代までのフランスの演劇文化財を継承する博物館的な劇場で、これは制度のうえからも別格です。パリにはそのほかシャイヨ劇場、コリーヌ劇場、パリ東部劇場などの国立劇場があり、それぞれに芸術路線がちがいます。また地方にも国立ストラスブール劇場をはじめいくつかの劇場があります。そのすべてに芸術監督がいます。
②市立劇場
パリやリヨンには市立の劇場がありますが、概して現代的な前衛に傾斜したプログラムを用意しています。
③国立演劇センター
フランスの公共劇場を貫く理念がもっとも現れているのは、この国立演劇センターでしょう。パリ一極に集中している演劇を地方に拡大させるために、1940年代から次々と創設されて、現在約30の施設が活動しています。国立ですが、運営費に占める国庫の割合はほぼ40%。残りの30%を地方自治体が出して、残った30%が興行収入です。芸術監督は国(文化コミュニケーション省)によって任命され、任期は3年(更新は2回まで可能)です。また、同等の役割を持つ国立振付センターもいくつかあり、ダンスを担当しています。
④国立舞台
 国立演劇センターを補完するような形で創設が進められた、劇場というよりは多目的スペースと言ったほうがいい施設です。演劇のほか、ダンスも重視されています。
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 ここまで紹介した劇場施設の総数はおよそ100くらいと思われますが、これらがみな文化省の推進する文化政策にしたがって展開されてきたことは特筆すべきことだろうと思います。では、なぜフランスはこうまでして全国に演劇を広げようとしているのでしょうか。これはたいへん大きな問題なのですが、筆者はフランスの公共劇場を、垂直軸に広がった権力の分布を水平方向に広げることで社会の均衡を保とうとする力の表れなのではないかと考えています。貧富の格差、知的ヒエラルキー、都市と地方、などの社会格差はあまりに拡大すると社会分裂、果ては社会転覆のおそれがあります。統治の言葉が通じなくなるのは危険です。階級間の怨嗟は避けなければなりません。フランスでは演劇という媒体が非常にそうした格差を越えやすいジャンルなのです。モリエールなんか、子供から大人まで楽しめる典型です。実際、フランスの劇場は多種多様な年齢層の観客がいます。
 これは日本のプロ野球が果たしている役割にひょっとすると近いと思うのです。ただしテレビ・メディアの介在が水平軸をゆがめてしまいがちですが、それはともかく・・・。フランスの国内プロ・サッカーは意外と階級を越えて機能しませんから、スポーツに頼ることは難しいのです。(サッカーは国際的には水平分布装置として機能しています。)
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 フランスの公共劇場の責任者はdirecteurという芸術監督です。単に「監督」あるいは「劇場監督」と訳すのがいいかもしれませんが、国立劇場、国立演劇センターは演出家あるいは俳優がこの任にあたります。ほとんどの場合、演出家です。これは19世紀の末以来、演劇が「演出家の芸術」として確立している実情を反映したものです。さて、日本の芸術監督は劇場の責任者である場合もありますが、その実権の形態はさまざまです。公共劇場は地方自治体の外郭団体が運営し、その団体の理事長は役人のOBであり、芸術監督は理事長が任命する、というケースもよく見受けられます。理事長には最近では財界人が登用される例もあります。少なくともフランスのように大臣が任命する形態というのは存在しないのではないでしょうか。(新国立劇場の芸術監督もおそらくそうではないでしょう、ましてや運営団体の日本芸術文化振興会が独立行政法人なのですから。)日本型の運営形態が一概に弊害であるとは思えませんが、芸術上の責任と財政上の責任が別の所在にあるのは、一見、合理的なようでありながら実は、公共サービスとしての演劇という思想を初めから否定していることにはならないでしょうか。芸術上の責任と財政上の責任がひとつになっているからこそ公共政策のなかに演劇が位置づけられるのです。もちろん、実務面での番頭さんにあたるadministrateurがいますが、それはけっして芸術監督と対等な関係ではありません。まさか、芸術監督が全権責任者になると、役人の天下り先である外郭団体理事長ポストが減るというのがネックになっているのではないと思いますが・・・。
 フランス文化省は芸術監督の芸術上の自主権autonomieを保証します。プログラムは芸術監督の責任で決められます。しかし劇場財政に穴を開けることは許されません。ここから日本だと、観客動員が見込める企画へと走ります。しかし、フランスの場合、観客開拓活動への回路が開かれています。手元の資料はフランスではなく、ベルギーの例なのですが、ある芸術監督は観客の開拓のために、公演の度ごとに地域の学校教師を稽古場やディスカッションに招いて作品の意義を説きます。生徒も稽古場見学させます。学校へ模型を持っていったり、俳優に試演させたりして徹底的に学校へ演劇を普及させます。教師用のパンフレットも無償配布しています。こういう活動を通してはじめて劇場に人々が来るようになるのです。つまり、芸術監督の資質というのは、優秀な演出家であることはもちろん、潜在的観客に対して自分の企画した芸術の価値をきちんと説明できる、住民を説得できる能力も必要なのです。この点、日本でも芸術監督と教育委員会の強い連携が望まれます。そこまでやれる覚悟がなければ、地方自治体が公共劇場を建てても、いずれは劇場が行政のお荷物になるのは目に見えています。
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 芸術監督の責任において実行される文化政策としての劇場運営は、当然ながら評価されます。それは毎年、文化省や自治体によって行われ、契約の更新に際してはそれに基づいて更新の可否が検討されます。フランスの場合、評価の中心は予定された入場料収入を獲得できたかどうかでしょう。個別の公演について国や自治体が芸術的評価を与えるようなことは、とりあえずありません。ただし芸術的に高い評価を得れば、その演出家へは将来のステップ・アップが保証されるでしょうし、観客評価そっちのけで、そこへ賭けていく演出家もいないわけではありません。しかし、そうした少数の野心的な演出家を除けば、年間を通して知名度のない現代作家から、やや甘口の古典までうまく並べて採算を取るのが常道のようです。ところが、この評価のシステムが日本では確立していません。公共劇場の運営に指定管理者制度が導入され、企業やNPOに劇場を任せてもいいようになってきた分、評価はしやすくなったのですが、この評価機関に、たとえばべつの公共劇場のスタッフが入っていたりすることもあります。新国立劇場は独立行政法人ですから、文化庁が公演のひとつひとつに対してABC評価を行っているはずで、これは表現の自由を拘束してはいないか、と国会で問題になったこともあります。文化庁から委嘱された専門委員がこれにあたりますが、国民に開かれた演劇を目指すというお題目のもと、腹ではこの委員の顔色ばかりうかがう演劇が行われては遺憾です。この方式が地方公共劇場にまで及ぶと、どこの公共劇場も特色を出し切れなくなるおそれがあります。
 フランスでは芸術監督には原則的に、在任中は他劇場での仕事が認められません。企画、人選、演出、教育・・・、芸術監督は毎日劇場でするべき仕事があるのです。日本はどうでしょう。知名度があるがゆえに請われるままに複数の公共劇場とかかわり、民間劇場でも演出をし続ける例もあります。これで観客が公共劇場に来ないと言って嘆いているのは、やはり甘いとしか言いようがありません。日本でもまず、公共劇場の芸術監督はフルタイム専任を条件としていただきたいと思います。
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 ところで、さきほどフランスの公共劇場について解説した際、⑤の地方演劇センターについて触れませんでした。日本の公共劇場政策が陥る落とし穴はここだと思ったので、最後まで取っておきました。地方演劇センターは組織の上からは、日本の地方自治体が作った公共劇場とよく似ています。その使命が地域の芸術振興だという点も似ています。フランスは1940年からほぼ50年かけて、全国に国立演劇センターのネットワークを作り上げました。地方演劇センターは国が第一段階としての整備を完成させたことにより、地方文化の活性化に文化政策の目標を変えた結果、誕生しつつあるものです。市民参加型の演劇が発生する可能性があるのは、地方演劇センターあるいはそのさらに下位の地元密着型文化施設においてです。裏を返せば、国立劇場以下、さきほど説明した公共劇場にはそういう地域文化振興の使命は乏しいのです。地方演劇センターは「2本目の線路」としての公共劇場なのです。中央からやってくる演出家の演劇を見て育った世代が、自分でもやってみようと思うアマチュアとなったときに、それを吸い上げる役目をするのです。ですから、日本でも、市民参加の演劇がうまくいかないからという理由で公共劇場を非難するのはおかしい話です。プロのいいレベルのものが作れてこそ、そこへ取り組めばいいのです。「市民参加」という言葉がどうも独り歩きしてしまっているようです。それをやるのが公共劇場の使命だという声には、筆者は同調できません。これもまた、公共サービスという思想が欠如しているので、市民が「参加」するという形でしか市民と文化行政の関係を考えられなくなってしまった陥穽にはまっているのではないでしょうか。
 そして、問題なのは、こうした地方文化の活性化がそのまま日本の自治体のモデルケースとなってしまうことが予想されることです。(実際、そういう研修会、視察は相当例ある。)フランスの某市の地方文化活性化政策が、そのまま日本の地方のある自治体のモデルとなっては、誤解に基づく悲劇しか生みません。繰り返しになりますが、地方演劇センターは国立演劇センターを補完する関係において成立しているものです。日本でよく見られる光景ですが、中央の著名演劇人を地方の公共劇場の芸術監督に据えて、さあ演劇で村おこしをやってくれ、って、そんなことが簡単にできると思っているのでしょうか? 「一本目の線路」がないところに「2本目の線路」をひいても実を結ぶはずがないのです。
 
佐藤康 ドラマトゥルグ