演劇フラヌリー 第8回 

病と身体


11月はとても考えさせられる舞台に出会いました。俳優座のラボ劇場公演、エルヴェ・ギベール作『飛べ、ぼくのドラゴン』です。ラボ公演というのは、六本木の俳優座が同劇場の上階にある稽古場を使って行う小規模な公演で、これまでにも英米の現代作品を実験的に上演しています。フランス作品は今回が初めてです。
 エルヴェ・ギベールは91年にHIV感染がもとで死んだ小説家です。エイズと同性愛を主題にした衝撃的な小説『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』で一躍有名になりました。日本語にも、その作品をはじめとしていくつかの作品が翻訳紹介されています。そのギベールが戯曲を遺していたことは、私も不勉強で知りませんでした。戯曲といっても『飛べ、』は特殊なテクストです。25景からなる場面が断片的に並べられていて、一貫した筋はありません。孤独な男が見る夢のような光景のなかで、彼とさまざまな人物がかかわっていく場面が展開していきます。この男には作者ギベールが投影されていると考えていいでしょう。世界との違和をかかえていて、絶望しているふうでもあり、さまよっているふうでもあります。カフカの作品の主人公のように、不確定な存在ですが、この男はホモセクシュアルであり、相手の男との交渉も舞台に描かれています。孤独、絶望、求愛という、ギベールの魂の叫びのようなものが色濃くたちこめています。そしてまた、ギベールの世界の鍵でしょう、他者とのかかわりのなかで深く傷つけられた自己の、その傷口をさらけだすような世界がひろがっています。
個人的に言えば、私はこういう主題は苦手です。書きたくないのですけれども、なのに今月は覚悟をきめてこれを取り上げようと思ったそのわけは、またひとつ別の偶然の影響です。
先日、パトリス・シェローの新作映画『ソン・フレール』を見せてもらう機会がありました。演出家として当代屈指の大きな存在であり、また映画監督としても次々に作品を作っているシェローです。この映画は、白血病に冒された兄の命を見つめるホモセクシュアルの弟の物語です。病という力、そして医療というべつの制度的な力の前に、虐げられるようにして衰弱していく兄の、苦しみにみちた身体がいっぽうにあり、他方には弟の、同性との肉体交渉を必要とする身体があるのです。このふたつの身体のありようが、やはりギベールの世界に登場する男の身体につながっている、という気がするのです。シェローが唯一、演出した現代作家だったB.M.コルテスはギベールと同じようにホモセクシュアルであり、やはりHIV感染で死にました。そのコルテスが生前に残した数少ない対談の相手、それがギベールです。そういう事情もあって、私はコルテス、ギベール、シェローを切り離して考えることができないのです。

『飛べ、』に話を戻しましょう。筋のないテクストをどのように上演したらよいか。『飛べ、』を見るに先立っての私の関心はもっぱらそこにありました。筋のないテクストはフランスの現代作品の一部の潮流のなかではけっして珍しいことではありません。だいたい「筋」などというものはサミュエル・ベケットが滅ぼしてしまった、というのがその発想なのです。ベケットは晩年になるにつれて、ますます筋はおろか、通常の意味での行為がほとんどない作品を作るようになりました。けれどもベケットの場合は、それと同時に作品も数分から、さらには数秒と、どんどん短くなっていったのですから、筋はなくても芝居は続いていく『飛べ、』のような作品とは同列に置けません。
似たような例で、テクストの科白のレベルまで極端な断片化が行われた作品には、ミシェル・ヴィナヴェールが一時期に書いていたものがあります。数年前に世田谷パブリックシアターでリーディング公演が行われた『職探し』という作品は、本来はひとつの整合性のある筋のなかで交わされる会話を、作者がまるで乱数表でも使ったみたいにバラバラに並べなおして再構成した作品です。登場人物は次々に脈絡のないことを話し出しますし、相手の応答も同じように支離滅裂です。こうなると、もうふつうには分からない代物ができあがります。ヴィナヴェールのねらいは、観客もふくめて作品にかかわる全員が、それぞれ違った理解をするシステムの場に演劇をおきたい、というものです。私たちが世界をそれぞれに、自分と関わる部分をつないで理解しているように。
 こうした徹底した解体の作業とくらべると、ギベールの作品は「解体」をめざしたものではありません。明らかに何かを構築、伝達しようとしているのです。しかし、それが物語の形になっていないのです。
一般にこういう形式の作品は演劇よりも、ダンス・舞踏系のパフォーマンスに向いています。今回の作品の翻訳者でもあり、また実質的に出演俳優の身体表現にアドバイスを与えたと思われる沢のえみさんはパントマイムの演者、指導者でもありますから、これを舞台にかけようとするねらいも、やはり俳優の身体的な運動について実験をすることにあったのでしょう。それについてだけ言えば、全編を通していろいろと、パフォーマティヴな動きが見られました。俳優もおおむね課題によく応えていたとは思いますが、しかし、どうしても、その身体の運動が作品の提出しているテーマとからみあっていない、という観をぬぐえませんでした。
そうなると、この作品の脈絡のない光景の連続を、観客がどう受け止めたらよいのかが問題となります。素朴な話で恐縮ですが、パフォーマンスの面白さだけでは1時間15分くらいの時間をもたせるのは辛いのです。ダンスの公演だってよほどの力量を要求される時間です。そこまでの身体造形を、俳優座のような「話劇」を中心とした訓練を受けている俳優にこなせというのも無理でしょう。技術的な試みだけが一人歩きしてしまったような気がしてなりません。やはり、身体的な実験といえども、特定の作品を上演するという枠組みがある限りは、作品が要求する身体とはいかなるものであるかを考えてみる必要があると思います。

ホモセクシュアルをめぐる主題はHIV感染が問題となって以降、大きく変質しました。ジッド、コクトーにあったような美的な体験はいささか古典的すぎるにせよ、そこには倫理や審美との対決の姿勢がありました。ジュネの散文作品にいたると、その対決は消えて、反転された世界の称揚が起こります。けれどもHIV世代であるギベールとコルテスは、ホモセクシュアルを孤独な求愛の主題へと転換します。そもそも身体をめぐる主題であったにもかかわらず、ホモセクシュアルは自己の主体の精神性の問題から、人間という、セクシュアリティーを刻印された身体性の問題として、はじめて表れてきます。それはホモセクシュアルが不治の病と結び付けられたために起こった変化なのでしょう。HIVは癌のような器質的な部位の病ではありません。身体が身体というトータルな存在として冒される病です。病に冒された身体の受動性、衰弱しつつある身体の受苦。それこそがギベールが描きたかった身体の姿だろうとおもうのです。フランシス・ベーコンが描くような、引き裂かれた身体のイメージに近いのです。
けれども、演劇はその要求にはたしてどのように応えられるのでしょうか。私はシェローがこの問題をもっぱら演劇ではなく、映画を通して追求していることの意味を重く受け止めるべきだと思っています。『モン・フレール』は長期の撮影とともに俳優が痩せていくさまが描かれています。映画の身体は演劇に比べて極端に受動的です。演劇の身体はどうしても、アクティヴに見えてしまうのです。
身体の受苦の劇。それは舞踏なら成立するかもしれません。演劇にもそれが可能だとするならば、ヤン・ファーブルかグロトフスキのように、残酷なまでに身体に抑圧をかけていかなければならないかもしれません。もちろん、その二人の演出家に大きな影響を与えたアントナン・アルトーの思考にもそれを解く鍵がみつかるかもしれません。
演劇がアルトーの経験が辿った果てに向かわないかぎり、ギベールが描く身体性を舞台にもたらすことは不可能でしょう。
ともあれ、今回の『飛べ、』はこれを見せるための戦略が足りなかったと言わざるをえないでしょう。練り直して再挑戦してはいかがでしょう。
2005年1月

佐藤康 (ドラマトゥルグ)